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遣隋使 小野妹子

投稿日:2018-09-11 更新日:

聖徳太子(厩戸皇子 うまやどのみこ)の時代に遣隋使として隋に派遣されたことで有名です.608年9月11日,小野妹子は遣隋使として2度目の隋へ旅立ちました.

当時の船旅は現代の月旅行やエベレスト登頂よりはるかに危険でした.仮に運良く到着しても,隋の皇帝が激怒する内容の国書を持って行けば首をはねられてもおかしくない訪問は死を覚悟したものだったと想像します.遣隋使を2度も経験した小野妹子は強運の持ち主だったとも言えます.

ところで,現代的な感覚から「妹子」という名前は女性かと思ってしまいます.「妹」はどうみても男性じゃなさそです.古代日本語でも「妹」の意味は女性でした.「妹」については弁解の余地はなさそう.なぜこの字を使ったのか分かっていません.

だたし,「子」については理由がありそうです.現代では女子の名前が大半ですが,聖徳太子,孔子,孟子など男性の名前にありました.中国の影響を受けていたと考えられます.

小野妹子は教科書にのるほど有名な歴史上の人物ですが,実はよく知られていません.このところは以下のサイトに詳しいのでご参照ください.

小野妹子 日出づる処の天使
http://www.ononoimoko.org/index.html


小野妹子(飛鳥時代)


学研まんがNEW日本の歴史【 名シーン動画】02飛鳥時代

この時代の記録は少ない(記録様式も現代とかなり違います)ので,ほとんどが想像力のたまものです.現代的に解釈すると,この様になるのでしょうね.

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推古天皇と聖徳太子


大化の改新 〜日本人の多くが2文字の姓になった理由〜【CGS 日本の歴史 3-4】

隋書(東夷伝・第81巻・倭国)を読む
http://kamodoku.dee.cc/zuisho-wo-yomu.html

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隋書倭國傳
魏徴
倭國在百濟・新羅東南、水陸三千里、於大海之中、依山島而居。魏時譯通中國三十餘國、皆自稱王。夷人不知里數、但計以日、其國境東西五月行、南北三月行、各至於海。其地勢東高西下、都於邪靡堆、則魏志所謂邪馬臺者也。古云、去樂浪郡境及帶方郡並一萬二千里、在會稽之東、與※(「にんべん+擔のつくり」、第3水準1-14-44)耳相近。漢光武時、遣使入朝、自稱大夫。安帝時、又遣使朝貢、謂之倭奴國。桓・靈之間、其國大亂、遞相攻伐、歴年無主。有女子、名卑彌呼、能以鬼道惑衆、於是國人共立爲王。有男弟、佐卑彌理國、其王有侍婢千人、罕有見其面者、唯有男子二人、給王飮食、通傳言語。其王有宮室・樓觀・城柵、皆持兵守衞、爲法甚嚴。自魏至于齊梁、代與中國相通。開皇二十年、倭王姓阿毎、字多利思比孤、號阿輩※(「奚+隹」、第3水準1-93-66)彌、遣使詣闕。上令所司訪其風俗、使者言、倭王以天爲兄、以日爲弟、天未明時、出聽政跏趺坐、日出便停理務、云委我弟。高祖曰、此大無義理、於是訓令改之。王妻號※(「奚+隹」、第3水準1-93-66)彌、後宮有女六七百人、名太子爲利歌彌多弗利、無城郭。内官有十二等、一曰大徳、次小徳、次大仁、次小仁、次大義、次小義、次大禮、次小禮、次大智、次小智、次大信、次小信、員無定數。有軍尼一百二十人、猶中國牧宰。八十戸置一伊尼翼、如今里長也。十伊尼翼屬一軍尼。其服飾男子衣裙襦、其袖微小、履如※(「尸+(彳+婁)」、第4水準2-8-20)形、漆其上繋之於脚、人庶多跣足、不得用金銀爲飾。故時衣横幅、結束相連而無縫、頭亦無冠、但垂髮於兩耳上。至隋其王始制冠、以錦綵爲之、以金銀鏤花爲飾。婦人束髮於後、亦衣裙襦裳、皆有※[#「ころもへん+巽」、89-5]※[#「てへん+孅のつくり」、89-5]、竹爲梳、編草爲薦、雜皮爲表、縁以文皮。有弓矢刀※(「矛+悄のつくり」、第4水準2-82-20)弩※[#「矛+贊」、89-6]斧、漆皮爲甲、骨爲矢鏑、雖有兵無征戰。其王朝會必陳設儀仗、奏其國樂。戸可十萬、其俗殺人強盜及姦皆死、盜者計贓酬物、無財者沒身爲奴、自餘輕重、或流或杖、毎訊究獄訟、不承引者、以木壓膝、或張強弓以弦鋸其項、或置小石於沸湯中、令所競者探之、云理曲者即手爛、或置蛇瓮中令取之、云曲者即螫手矣。人頗恬靜、罕爭訟、少盜賊、樂有五絃琴笛。男女多黥臂、點面文身、沒水捕魚。無文字、唯刻木結繩、敬佛法、於百濟求得佛經、始有文字、知卜筮、尤信巫覡。毎至正月一日、必射戲飮酒、其餘節略與華同、好棊博・握槊・※(「木+需」、第4水準2-15-67)※[#「くさかんむり/捕」、89-11]之戲。氣候温暖、草木冬青、土地膏腴、水多陸少、以小環挂※(「顱のへん+鳥」、第3水準1-94-73)※(「滋のつくり+鳥」、第3水準1-94-66)項、令入水捕魚、日得百餘頭。俗無盤俎、藉以※(「木+解」、第3水準1-86-22)葉、食用手餔之。性質直有雅風、女多男少、婚嫁不取同姓、男女相悦者即爲婚、婦入夫家、必先跨火、乃與夫相見、婦人不淫妬。死者斂以棺槨、親賓就屍歌舞、妻子兄弟以白布製服、貴人三年殯於外、庶人卜日而※(「やまいだれ+(夾/土)」、第3水準1-88-54)、及葬置屍船上、陸地牽之、或以小※[#「譽」の「言」に代えて「車」、90-1]。有阿蘇山、其石無故火起接天者、俗以爲異、因行祷祭。有如意寶珠、其色青、大如※(「奚+隹」、第3水準1-93-66)卵、夜則有光、云魚眼精也。新羅・百濟皆以倭爲大國多珍物、並敬仰之、恆通使往來。大業三年、其王多利思比孤、遣使朝貢。使者曰、聞海西菩薩天子重興佛法、故遣朝拜、兼沙門數十人來學佛法。其國書曰、日出處天子、致書日沒處天子、無恙、云云。帝覽之不悦、謂鴻臚卿曰、蠻夷書有無禮者、勿復以聞。明年、上遣文林郎裴清使於倭國、度百濟、行至竹島、南望※[#「身+冉」、90-6]羅國、經都斯麻國、※(「二点しんにょう+向」、第3水準1-92-55)在大海中。又東至一支國、又至竹斯國、又東至秦王國、其人同於華夏、以爲夷洲、疑不能明也。又經十餘國達於海岸、自竹斯國以東、皆附庸於倭。倭王遣小徳阿輩臺、從數百人、設儀仗、鳴鼓角來迎。後十日、又遣大禮哥多※(「田+比」、第3水準1-86-44)、從二百餘騎郊勞。既至彼都。其王與清〔相見、大悦曰、我聞、海西有大隋禮義之國、故遣朝貢、我夷人僻在海隅、不聞禮義、是以稽留境内、不即相見、今故清道飾館、以待大使、冀聞大國惟新之化。清答曰、皇帝徳並二儀、澤流四海、以王慕化故、遣行人來、此宣諭。既而引清就館。其後清遣人謂其王曰、朝命既達、請即戒塗。於是、設宴享以遣清。復令使者隨清〕來貢方物。此後遂絶。

青空文庫より
底本: 魏志倭人伝
出版社: 岩波文庫、岩波書店
初版発行日: 1951(昭和26)年11月5日
入力に使用: 1983(昭和58)年9月10日第42刷
校正に使用: 1976(昭和51)年5月10日第33刷
底本の親本: 隋書 卷八一 東夷傳
出版社: 武英殿版本

今日はこれまで.ではまた.

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