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ポルトガル船,種子島に漂着.鉄砲伝来 と鐵炮記(旧字表記)

投稿日:2018-08-25 更新日:

1543年(天文12)8月25日(1543年9月23日)に種子島にポルトガル船やってきました.この時,初めて日本に鉄砲が伝わり,その後の戦国時代の戦法を大きく変えるきっかけになりました.

鉄砲伝来については,鐵砲記(1606年)という鉄砲伝来について記された書が残っています.この書を根拠に鉄砲がポルトガル船により種子島経由で日本に広まったとされています.

鐵砲記によれば,の西岸にある西ノ村に100人ほどの奇妙な顔かたちの外国人が種子島の西岸にある西ノ村に大きな船でやってきたとあり,言葉が全く通じなかったのですが,明国からの儒生「五峯」がいたので漢字で筆談し,南蛮からやってきた商人だとわかりました.

島主である種子島時堯は鉄炮2挺(火縄銃)を入手するとともに,火薬の調合法を学んだと伝えられています.

鉄炮記

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%89%84%E7%82%AE%E8%A8%98

鉄砲伝来

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%89%84%E7%A0%B2%E4%BC%9D%E6%9D%A5

アントニオ・ガルヴァオ著の「新旧世界発見記」によれば,種子島にポルトガル船が漂着する前年の1542年にジパングが発見されたことになっています.それまではマルコ・ポーロの「東方見聞録」で「黄金の国ジパング」として知られていたものの,ジパングが一体どこにあるのか知られていませんでした.

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「西暦1542年,シャム王国のドドラに停泊していた船の船長・ディエゴ・デ・フレイタスの下から3人のポルトガル人が脱走し,ジャンク船で中国へと出航した.3人の名はアントニオ・ダ・モッタ,フランシスコ・ゼイモトとアントニオ・ペショトで,北緯30度あたりにある寧波に進路を取った.しかし,嵐に見舞われ陸から離れてしまったところ,北緯32度で東に島を見つけた.その名は日本であり,まさに物語で語られる富貴の島ジパング(Sipangu)そのものであるらしく,金銀と豪華なものが溢れていた.
— António Galvão」

António Galvão

https://en.wikipedia.org/wiki/Ant%C3%B3nio_Galv%C3%A3o

種子島鉄砲伝来ジオラマ(映画黒潮物語)H17年

本当の鉄砲伝来地・ポルトガル人上陸之地石碑に行く③ナレーション付H28 5

鉄砲記現代語訳ナレーション(これが真実! !南浦文之著・鐵炮記)H29 5

宇宙、無限の可能性をめざして~種子島宇宙センター~

現代では鉄砲伝来の地がロケット発射場になっています.

今日はこれまで.ではまた.

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